過去生の記憶に対する私のスタンス

なんだか熱く過去生の記憶について語ってしまいました。

まるで自明の理であるかのように語りましたが、まだ私の中にためらいと猶予はあります。

だって、事実かどうか、確認できないことですもんね。

ただの空想、ただの妄想かもしれない。


でも、ひとつ言えるのは、このストーリーについて語ることが私にとって意味がある、ということ。

ある意味で物語療法(ナラティブセラピー)。

私が私自身の生きづらさ、自己不信を乗越えるために、このストーリーは必要であり、有効であった。

私にとっては真実だった。

このストーリーについて思いをめぐらせ、湧き上がってくるさまざまな感情を味わい、共感や理解を示してくれる仲間と語りあうことは、とても大きな意味を果たした。

その結果、「私は自己不信を乗越え、根強い対人恐怖を乗越え、人のお役に立っていく」という結論に行き着くことができた。



頭ではとっくにその結論は導きだせていた。

でも、体感覚レベルでは腑に落ちていなかった。

体感覚レベルで納得するためには、「どれほど怖いのか」「なぜそこまで怖いのか」を表現するストーリーと、「そこを乗越える勇気」「その後得られるつながり」などのストーリーが必要だった。

そのストーリーに沿って感情を沸き立たせ、体感覚で(まるでありありと思い出しているときのように)恐怖、許し、決意、高揚感、つながり感を味わうこと・・・



私の奥深いところでこの体験は真実の体験として経験された。

それはまさに私にとって、癒しの過程だった。




全て、過去生の記憶って、そういうことだと思う。

事実なのかどうなのか、論証のしようのないこと。

だいたい、論証できたとして、それがなんだというのか?

ただ、その人にとって、そのストーリーを味わい、語ることが意味があるならば、ぜひそうすればいい。


その人が、その人らしいより良い人生を輝いて生きることに、何かの助けになるならば。



私は輪廻転生説を採用する。

私は魂には過去生の記憶がある、という説を採用する。

その記憶が今生に大きな影響を及ぼす、という説を採用する。

今生での生き方が、来世がどんな人生になるかを決める、という説を採用する。

なぜなら、私はその考え方で世界を見るといろんなことが腑に落ちて明快になるので気に入っているから。

ただ、それだけ。


私は決して、「これが正しいのに、その正しさが分からない人たちはおバカ」みたいなスタンスにだけは立ちたくないと思う。


「私はこの説を採用しました。

あなたは違う説を採用するんですね。」


こんなスタンスでいたい。




私がこんなことを書きたくなった理由には、どこかで「再び迫害される恐怖」を感じてるという事実があります(^^;


過去生の記憶について書くなんてヘンな人、と思われたら攻撃されるかもしれない。

非科学的な人、狂信的な人、ということで誹謗中傷されるかもしれない。



この不安について昨日、私のコーチに訴えると、「もう迫害されない、という現実を選択すればどうですか」と言われてしまいました(^^;

さすが私のコーチ、いいことを言います。

私はもう既に迫害からは多くを学びました。
もうこの学びは私には必要ありません。

私は今生では、認められ受け容れられ社会で活躍していく人生を選びます。
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by tamahomishio | 2005-05-17 18:41 | 過去生の記憶?
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